江戸末期の武雄藩(鍋島茂義)
明治初期の当地武雄出身の山口尚芳は有名ですが、
私は鍋島茂義の方に興味持ってます。 鍋島茂義は寛政12年(1800年)、第27代の武雄領主鍋島茂順の子として生まれました。 22歳で佐賀藩の家老に就任。 これは大抜擢なことです。 当時、佐賀藩の財政状況は極めて厳しく佐賀藩主鍋島斉直の側役有田権之丞が領内に例外なく人頭税を課そうとしたそうですが、 茂義は「人頭税を課すことは政治の要諦にあらず」と反対辞職!! しかし再び家老に就任。文政7年(1824年)、将軍徳川家斉の娘盛姫が佐賀藩主鍋島斉直の嫡子鍋島直正に嫁ぐことが決まりますが、 佐賀藩の財政状況の厳しさから、茂義は江戸に上りその延期を請願しましたが、幕府に拒まれ、、結局江戸において鍋島直正と盛姫の婚儀をつかさどったそうです。 また、文政7年(1824年)に江戸に上った際、佐賀藩江戸藩邸の財政が遊郭に流れているとして、江戸藩邸の責任者を弾劾し、 その結果、家老鍋島石見は家老職免職、側役有田権之丞と納富十右衛門は佐賀に送り返され切腹を命じられた。 婚儀の大役を終えた茂義は佐賀に戻るが、 その途中、品川で藩主鍋島斉直の遊興の場であった別邸を財政破綻の一因であるとして焼き払ったため、斉直の怒りを買い、家老罷免の上、切腹を言い渡された。 このとき、佐賀藩の支藩小城藩主と多久領主が鍋島斉直に諫言し、茂義は切腹を免れました。 文政10年(1827年)1月、三たび家老に就任したそうです。 この年、佐賀藩主鍋島斉直の娘竈姫と結婚し、茂義は鍋島直正の義理の兄となった。そして、この頃、鍋島直正の世継ぎ教育に積極的に関わっており、茂義は鍋島直正の成長期に大きな影響を与えたと思われます。 天保元年(1830年)、佐賀藩主鍋島斉直は隠居し、鍋島直正が第10代の藩主となる。鍋島茂義は、請役として、直正からたびたび意見を求められ、財政改革に取り組んだ。 また、天保3年(1832年)8月には武雄領主鍋島茂順が隠居し、茂義は、第28代の武雄領主となった。しかしながら、同年12月、前佐賀藩主鍋島斉直が江戸に上ることを希望したのに対し、莫大な経費を要する江戸への出府を藩財政逼迫の折に行うべきではないと諫言して斉直の怒りに触れ、12日間の謹慎を命ぜられるとともに家老を罷免!。 茂義は、家老を罷免される前の天保2年(1831年)、雨天でも使用できる火打石銃をオランダから輸入し、さらに、オランダ人を招いて軍事教練を実施して、武雄領内の軍制をオランダ式に改めている。 そして、天保3年(1832年)、家臣の平山醇左衛門を長崎町年寄高島秋帆に入門させて、西洋式砲術を学ばせ、天保5年(1834年)茂義自身も高島秋帆に入門し、翌年免許皆伝を受けている。 このように、茂義は、幕府韮山代官江川英龍などが着目する前から、高島秋帆と深い交流を持っており、天保6年(1835年)には高島が日本で初めて鋳造した西洋式大砲(青銅製モルチール砲)が茂義に献上されている。この青銅製モルチール砲は、高島秋帆の名や、オランダ暦(西暦)の1835年に初めて日本で鋳造された旨のオランダ語が刻まれた貴重なものであり、現在、武雄市図書館・歴史資料館に展示されています。 そして、この頃には、武雄領でも西洋式大砲の鋳造や試射が行われており、茂義は、我が国の封建領主の中で最も早く西洋の軍事技術の導入に成功した人物と位置付けられる。 この武雄領の軍事技術に佐賀藩が注目したのは、それから5年後の天保11年(1840年)に佐賀藩主鍋島直正が武雄兵の軍事演習を視閲したときであり、佐賀藩は、江戸幕府老中水野忠邦が西洋式砲術に興味を示しているのを敏感に察知して、天保13年(1842年)、武雄領の平山醇左衛門を砲術稽古及び大砲鋳造のために取り立てている。 しかしながら、幕府町奉行鳥居耀蔵の讒言により、同年末に高島秋帆が捕縛されると、翌年、平山醇左衛門が武雄領内で処刑されるなど、一時、佐賀藩内や武雄領内で高島色が払拭される動きが現れました。 そうした中でも、茂義は、佐賀藩の火術方(砲術研究所)で度々相談ごとを受け、また、諸藩に先駆けて新型砲(ペキサンス砲)の研究も行っており、オランダ通詞と独自のパイプを持っていた茂義が、日本周辺への列強の出没に危機感を覚え、さらに軍事研究を続けていたことが伺えます。 武雄には現在も138冊の蘭書コレクションや、地球儀や天球儀、測量器具や時計、薬品などの輸入物品が残されているが、これは茂義の時期にオランダから購入されたものです。 それに加えて、武雄では、天保年間、塚崎城(武雄領主の館、現武雄高校)で理化学実験用シリンダーなどのガラス製品や、蘭引(蒸留装置)や乳鉢、乳棒などの磁器が製造されている。 茂義やその家臣は、これらの実験器具を用いて理化学実験を行っており、特に、火薬や雷管の研究を行っていたと言われる。佐賀藩では、嘉永4年(1851年)に精煉方(理化学研究所)を設け、本格的に理化学研究に取り組むが、このような武雄領の研究結果は、その際、大いに参考にされたものと思われる。 また、嘉永7年(1854年)、鍋島茂義は、佐賀藩主鍋島直正から 精煉方における蒸気船建造の責任者に任命されるが、これも茂義がすでに蒸気機関についての知識を有していた表れと考えられます。 このように若くして時代の流れを読み取り、先進性を持った 指導者が後世の佐賀を日本に大きな影響を与えました。 大きな時代のうねりの渦中の現在、明治維新と変わらないような気がします。 現在の行政においても 時代の読みと先進性、そして行動力のある政治が求められ 市民もそれを望み樋渡市政が誕生し そして新議会も誕生しました。 選ばれた一員として、少しでも後世のお役に立てればと思ってます。
by maikokoti
| 2006-07-25 12:30
| 議会 政治関係
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